107 件の資料が見つかりました。
-
広報いしげ 1974年12月 第126号 広報いしげ
1974年12月
第126号はやめましょう。大清掃を展開する会員たち豊田城跡の史跡表示板は県道土浦、境線本豊田バス停留所前に、石下城跡の史跡表示板は、本石下八幡神社境内地に、長塚節生家表示板は、国生長塚節生家屋敷内に建立されました。町民の皆様!どう...
-
広報いしげ 1977年2月 第150号 広報いしげ
1977年2月
第150号場の碑除幕式町及び町観光協会ではこのぱど豊田城は古くは若宣尸にあったが、一時台豊田(上郷)に移り、十一代作基の時に本豊田に移って城を築いた。これより豊田家の勢力大いに奮い、次第に城郭を整え本城・中城・東城の三館を以って構...
-
広報いしげ 1979年8月 第177号 広報いしげ
1979年8月
第177号とます。治親の夫人や二子も、この本豊田の豊田城跡の石碑をご覧である金村の雷神祭には、昔からえたと思われる旧下妻街道がありるといわれています。いて建っています。豊田氏の氏神通じる道として、人馬の往来で栄数年間続く)の末えい...
-
広報いしげ 1982年9月 第210号 広報いしげ
1982年9月
第210号豊田氏が、下妻の多賀谷氏と戦いをした時、豊田城の前衛基地であった長峰城からとったものです。この長峰城は、現在の長峰橋からでは、豊里側やや北西の台地にありました。長峰橋の概要○総工費約十一億円○幅員一二・五メートル歩道二・...
-
広報いしげ 1982年11月 第211号 広報いしげ
1982年11月
第211号四日に、本豊田の中城中城土地改良記念碑(豊田城跡に建立された記念碑を前に町長(撰文者)が碑文を説明らの子孫でもあります。ありました。豊田氏は初代将基か費用の一部として五万円の寄付が北茨城市磯原の豊田美雄氏から、なお、この...
-
広報いしげ 1984年8月 第232号 広報いしげ
1984年8月
第232号されたが、戦後は廃止されてしまった。史跡豊田城跡23蔵持の道しるべ蔵持集落と古間木集落の境界近くに、榎の老木が茂り、道しるべとともに道行く人々の目じるしとしても大きな役割を果たしてきたのではないだろうかと伺われる。梵字の...
-
広報いしげ 1984年12月 第236号 広報いしげ
1984年12月
第236号石毛城は、戦国時代の天文元年(一万二二)豊田城主豊田四郎政親が、宗祖将基の遺霊を祭祀させ、下妻多賀谷氏を抑え、豊田本城の前衛として構築し、石毛の地(一万貫)を分封して次子次郎政重を拠らしめたと伝えられています。堂々の優勝...
-
広報いしげ 1985年1月 第237号 広報いしげ
1985年1月
第237号様な耕地と成つた。駒離の地名は、天正三年豊田城落城まで約五百年、覇を称えた豊田氏の出張館が置かれた地、館出の東側にあり軍偈の調練の場であったところから起つた(碑文)という。碑文の撰文者である町長は、「この土地改良事業は、...
-
広報いしげ 1986年5月 第253号 広報いしげ
1986年5月
第253号かけました。小林(か)私の知っている人で豊田城址の草とりをやっている人がいるんです。町長さんも時々回ってきて、「ここはきれいになっているなぁ」と感心していらっしゃるんです。あのおじいちゃんのまねはできないよ。おばあちゃん...
-
広報いしげ 1987年5月 第265号 広報いしげ
1987年5月
第265号客将として迎えられていた関係で、本豊田の豊田城落城後、これを頼って落ちた人も多く千葉(上総)には、豊田の地名や石毛の姓が残されています。昭和53年3月に建て替えられた天守閣...